私のブログ『邪馬台国と面土国』
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『日本書記』は神功皇后紀六十六年条に『晋起居注』を引用して、台与が掖邪狗らを魏に遣わしたのは晋の泰始2年(266)だと思わせようとしていて、通説では266年には台与が在位していたとされている。しかし『梁書』倭国伝と『北史』倭国伝は台与の後に男王が立ったことを伝えている。
至魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼始遣使朝貢、魏以為親魏王、假金印紫綬。
正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王。竝受中國爵命。
正始中に卑弥呼死す、さらに男王を立てるも国中は不服、さらに相誅殺す。また卑弥呼の宗女の臺與を立てて王となす。その後また男王を立て、竝んで(並んで)中国の爵命を受ける
文中の「竝」の意味には 「並んでいること」「並んだもの」「ならび」という意味と、 「よくも悪くもないこと」「ごく一般的であること」「普通」という意味があるそうだが、ここでは「並んでいること」「並んだもの」「ならび」という意味だと思うのがよい。
とすれば臺與(台与)と男王が並び立った時期があることが考えられる。この男王については東晋の義熙9年(413)に方物を献じた「倭の五王」の讃だと考えることもできそうだが、台与の即位した247年ころとでは年代差が大きすぎて並び立つという表現は適当ではない。ところが『晋書』四夷伝倭人条に次の文が見える。
名曰卑弥呼。宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帯方朝見。其後貢聘不絶、及文帝作相又數至。泰始初、遣使重譯入貢
名は卑弥呼。宣帝の公孫氏を平ぐるや、其の女王は使いを遣わして帯方に至らしめ朝見す。其の後、貢聘の絶えることなし。文帝の相に及ぶに、又、數至る。泰始の初め、使いを遣して譯を重ねて入貢す
宣帝とは司馬懿(仲達)のことで、文帝は司馬懿の子の司馬昭だ。239年に司馬懿が公孫氏を滅ぼすと卑弥呼が遣使してくるが、その後も遣使は絶えることなく続き、昭が相国(総理大臣)になってからも何度かの遣使・入貢があり、さらに泰始の初めにも倭人が遣使してきたというのだ。
「文帝の相に及ぶに、又、數至る」とあるが、司馬昭が相国だったのは258年から265年までの7年間だった。265年に司馬昭が死んで子の炎が晋の武帝として即位すると、翌泰始2年に倭人が遣使するがこれが「泰始初、遣使重譯入貢」だ。
司馬昭が相国だった258年から265年までの7年間に何度かの倭人の遣使があったのだが、このことが全く知られておらず完全に無視されている。これは『日本書紀』が266年(泰始2年)の遣使は台与が行ったとしているためだ。
『日本書紀』神功皇后紀六十六年条には次のように述べられている。
是年、晋武帝泰初二年、晋起居注云、武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢献
是の年は晋の武帝の泰初二年、晋起居注に云う。武帝の泰初二年十月、倭女王は譯を重ねて遣わし貢献す
続く六十九年条には神功皇后が100歳で崩御したことが述べられているが、『日本書紀』は神功皇后が摂政六十九年に崩御したとするために、六十六年条に『晋書』武帝紀の記事を引用しようとしたのだろう。
ところが『晋書』武帝紀には 「泰始二年十一月己卯月、倭人来たりて方物を献ず」とあるが、「倭女王」という文字はない。そこで『日本書紀』は「是の年は晋の武帝の泰初二年、晋起居注に云う」として、『晋起居注』に「倭女王」の文字があることを強調している。
『起居注』は皇帝の言動を記した日記風の文書で役所が管理した。『晋起居注』の存在は知られており、それが武帝紀編纂の資料になったことは事実だろうが、一般に出回る性質のものではないから『日本書紀』の編纂者が見たとは思えない。
倭人伝の記事によると台与の遣使は帯方郡使の張政の送還を兼ねたものだった。台与の遣使は台与の即位を魏に報告することと、魏が難升米に黄幢・詔書を授与したことに対する答礼のためだと考えなければならない。
それが魏が滅んだ後の西晋の武帝に対して行われたというのだ。その間には20年間が経過しているが、外交の常識からしてそのようなことがあるわけがない。台与の遣使は張政が来た247年か、翌248年に行われていなければならない。
張政は266年まで19年間に渡って女王国と狗奴国との対戦を指導したとも言われているが、留学生などならいざ知らず郡使には任務を果たすと復命する義務があるから、張政が266年まで倭国に居たとは考えられないことだ。
掖邪狗らが魏に遣わされたのは247年か翌248年で、帰国したのは248年か翌249年だろう。ところが掖邪狗らがまだ魏都の洛陽に居たかも知れない249年(正始10年)に司馬懿がクーデターを決行して魏の実権を掌握している。以後の魏の皇帝の廃立は司馬氏の思うがままだった。
司馬昭が魏の相国だったのは258年〜265年の7年間だが、260年には皇帝の高貴郷公髦が下臣に「司馬昭が魏を乗っ取ろうとしているのは、路を行く人の皆が知っている」と言って、逆クーデターを決行する。
髦は殺され司馬昭は元帝を擁立するが、その翌年に韓と?貊が遣使している。司馬昭の演出した元帝の即位を祝う遣使だったのだろう。この時倭人が遣使したという記録はないが、倭人も元帝の即位を知っており帯方郡に使節を送ったことが考えられる。
2世紀末の倭国大乱は後漢王朝が衰退して冊封体制が機能しなくなったことに原因があるが、その結果卑弥呼が共立されている。同様の状態が司馬懿のクーデター決行以後に起きたようだ。
司馬懿が魏の実権を掌握した249年から、司馬昭が相国だった265年までの間の魏の冊封体制は機能しておらず、「親魏倭王」に冊封された台与の権威は失墜し統治が不安定になり、男王を立てて倭国を統一する動きが出てくるようだ。
司馬昭が相国だった7年間の何度かの倭人の遣使は、卑弥呼の例からすると遣使は2〜3度だろうが、その2〜3度の遣使のうちに台与と、台与の後の男王が竝んで(並んで)中国の爵命を受けるための遣使と、元帝の即位を祝う遣使があったことが考えられる。
台与の後の男王については他に資料がないが、『梁書』『北史』に「竝受中国爵命」とある以上、認められていたと考えるのがよいだろう。
それは司馬氏が魏・呉・蜀の3国を統一し晋を建国する動きと連動しており、台与と並び立った男王が中国の爵命を授けたのは、現実には魏の元帝ではなく、晋の文帝(司馬昭)だっただろう。もちろん当時の司馬昭は魏の相国だったから爵号を授ける権限はなく、男王の爵命は魏の正史(公式史書)には記録が残らない。
そのために男王が中国の爵命を授けたことは『魏書』」に記録がなく、晋の成立した翌年の266年の倭人の遣使は正式なものだから『晋書』に記録が残っているのだ。『梁書』『北史』に「竝受中国爵命」とあるのは正史ではない非公式の記録が残っていたということだろう。
白鳥庫吉は天岩戸に籠る以前の天照大神は卑弥呼であり、岩戸から出てきた天照大神は台与としているが、この台与と並び立った男王が神話のホノニニギのようだ。
是に天忍穂耳命、天の浮橋に立たして、詔りたまはく、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国は、いたくさやぎて有りなり」と告りたまひて、更に環り上りて、天照大神に請ひたまいき。
オシホミミは天照大神から葦原中国の統治を命ぜられて天の浮橋まで降るが、下界が騒然としているので行く気になれないと言って引き返している。これには卑弥呼死後の争乱が語られておりオシホミミは卑弥呼死後の男王のようだ。
そこで台与が共立されるのだが、ホノニニギは父のオシホミミに代って高千穂の峰に降臨することになっている。『梁書』『北史』に「竝受中国爵命」とあるが、台与と台与の後の男王が竝んで(並んで)中国の爵命を受けたことを表しているのだろう。
ホノニニギが高千穂の峰に降臨する以前にスサノオの高天が原からの追放や、大国主の出雲の国譲りがあったとされているが、それは司馬懿が魏の実権を掌握した249年から、昭の兄の師が魏の実権を握っていた252〜255年ころのできごとだろう。
そして昭が魏の相国だった258年〜265年ころには台与と男王がならび立ったが、これを踏まえてホノニニギの高千穂の峰降臨の神話が生まれると見ることができる。