私のブログ『邪馬台国と面土国』

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HP版『邪馬台国と面土国』は、ひたすら古代史を探求し続けます。

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卑弥呼は面土国王の譲位を受けて倭王になった。譲位後の面土国王はあたかも刺史が州を支配するが如くに「自女王国以北」の諸国を支配するようになるが、それが神話では天照大神とスサノオの事跡として語り伝えられている。

始めに

『魏志』倭人伝には面土国の名は見えない。そこで面土国は末盧国のことだとか伊都国のことだと言われている。しかし面土国は3世紀にも実在しており倭人伝の伊都国以後の地理記事は面土国を起点とする放射行程になっている。

『魏志』倭人伝は壱岐と対馬の間を千余里としているが、その千里は魏の時代の百五十里で65キロになる。倭人伝の地理記事を大観すると下図のようになると思っている。




女王国東渡海千餘里、復有国、皆倭種。又有侏儒国在其南人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸国・黒歯国復在其東南、船行一年可至。参問倭地、絶在海中洲島之上或絶或連、周旋可五千餘里





3年間、245回に渡って投稿を続けてきた私のブログ『邪馬台国と面土国』もマンネリ化して取り留めのないものになってきた。そこでこれをホームページにして纏めてみたいと思うが、以前のブログでは詳細な点に触れている部分もあるので、ブログと合わせて読んでもらうとよいと思っている。


邪馬台国の位置論争は止まる気配がないが、そのうちに日本中が邪馬台国になってしまうだろう。それには三つのタイプがあるようだ。

その第1は邪馬台国を史学の対象と見るものであり、第2は地域振興など第1以外の目的のあるもので、その特徴は著名遺跡・神社などの観光地が邪馬台国とされる。第3は世間が騒ぐからと便乗するものだ。


第2と第3のタイプには重複している部分があるようだが、邪馬台国はロマンだから所在不明のままでよいという人がいるのは事実だ。しかし邪馬台国が史学の対象であることもまた事実であり、そうした面からは別の発想も必要だろう。



東南陸行五百里到伊都国・・・東南至奴国百里・・・東行至不邪国百里・・・南至邪馬壹(台)国・・伊都国までの距離は壱岐と対馬の間の半分だ。では邪馬台国は・・・?




そう言っている私も上図のような考えを持っているが福岡県の4分の1が邪馬台国になる。それだけ邪馬台国でない所を狭くしているのだが、図のように比定するについては太宰府天満宮蔵本『翰苑』に見える「邪届伊都傍連斯馬」の文を根拠にしている。

邪馬台国は「伊都に届き斯馬の傍に連なっている」と解釈するのだが、通説で伊都国・奴国とされている糸島市や福岡平野も邪馬台国になる。また筑後が投馬国になる。

末盧国と伊都国の間に存在しないとされている面土国があったが、それは筑前宗像郡だ。伊都国は怡土郡・志摩郡(現糸島市)ではなく田川郡であり、奴国は福岡平野ではなく遠賀川の中・上流域だ。


図の境界線は後世の国郡境で私が意図して線引きしたものではない。これには通婚が関係するだろう。今日のように交通網が発達していなかった時代の通婚圏は同郡内か隣接する郡内に限られていた。

通婚が重なると地域に連帯感が生まれ国を形成することになるが、それには地勢が影響する。最近では交通網が整備されて通婚圏が拡大したことや、通婚についての考え方が変わり一変してしまったが、傾向としては残っていると思う。


確かに『魏志』倭人伝には面土国の名は見えず存在しないように思えるが、面土国は実在している。それを論証する方法はあるだろうか。実に単純だが方法はある。先入観や自分の意図する所を含めないで、面土国の存在を認めるか否かを比較・検討するだけのことだ。

そうは言っているものの容易なことでない。これには私の意図が加わっていることになるのかも知れないが、倭人伝の伊都国以後の地理記事は宗像市(面土国)の田熊石畑遺跡付近を起点とする放射行程になっている。




倭人伝の1里は70〜100メートルとされているが、私は65メートルだと考えている。上図に示したように宗像郡のほぼ全域が百里圏内に入るが、宗像郡と遠賀郡の郡境の城山峠までが百里に近く、宗像郡と鞍手郡の郡境の猿田峠までも百里に近い。

このように見ると東南百里の奴国は鞍手郡とすることができ、東百里の不弥国は遠賀郡とすることができるが、これを偶然のこととしてよいだろうか。

また東南五百里の田川郡を伊都国とすることができるが、これらの郡はいずれも遠賀川水系の郡で、「自女王国以北」の国の条件を満たすことができるのは遠賀川流域だと見ることができる。


邪馬台国については方位が南とあるだけで距離が分からないが、宗像郡が面土国であるのに対して糟屋郡以南が邪馬台国になると考えている。つまり現在の宗像市・福津市が面土国であり、福岡市は邪馬台国になるが、邪馬台国は面土国の南百里に位置している。


倭人伝の国の記載順はほぼ宗像に近い国から遠い国の順になっているが、国名のみが列記された21の旁国についてはページ下の図のように考えている。

最初の斯馬国は筑前の志摩郡であり、倭国の極南界とされている21番目の奴国は豊後の直入郡になる。倭人伝の言っている倭国の極南界とは、『古事記』『日本書紀』のいう筑紫の国・豊の国と、肥の国・日向の国境のことだ。


21ヶ国中の邪馬国は豊後日田郡だと考えているが、邪馬国とは「山の国」と言う意味の国名だと考える。邪馬台国という国名はその日田郡への西の入り口に当たる朝倉郡を、山門・山登・山処の文字で表すことのできるような、山の国への入り口と言った意味で邪馬台と言ったと考えている。


現代の福岡県は文化的・経済的に福岡地区・北九州地区・筑豊地区・筑後地区の4地区に別れるという。大まかに言えば筑前が福岡地区・筑豊地区になり、豊前が北九州地区になり、筑後が筑後地区になると言える。



これには地理的な条件が大きく影響しているが、3世紀にあってもこのことが言えるようだ。倭人伝が邪馬台国とするのは福岡地区であり、投馬国は筑後地区のようだ。そして「自女王国以北」は筑豊地区で、国名のみの21ヶ国の最初の部分が北九州地区になる。

宗像郡は面土国であり志摩郡は志摩国だと考えるので、両郡を除く福岡地区の大部分が邪馬台国になる。では卑弥呼の宮殿は福岡地区のどこにあっただろうか。


福岡地区に邪馬台国があったとする説はいくつか見られるが、決定的根拠といえるものは見つかっていない。『魏志』倭人伝の記事だけでは卑弥呼の宮殿・墓は分からない。

私の考えも推察になるが、この点については斉明天皇の筑紫朝倉遷都との関係を考えるのがよいと思っている。斉明天皇の朝倉橘広庭宮について、『日本書紀』斉明天皇紀七年条には次ぎのようにある。

是の時に朝倉社の木を(伐)り除ひて、此の宮を作る故に、神忿りて殿を壊つ。亦、宮の中に鬼火見れぬ

また八月条には斉明天皇の喪葬について「
朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て喪の儀を臨み視る。衆皆嗟怪ぶ」とある。

朝倉社は志波の麻底良山に鎮座する延喜式内社で、天照大神を祭神とする麻底良布神社だとされていて、朝倉山は麻底良山を含む東西に延びる山塊だという。

斉明天皇は卑弥呼が天照大神であることを知っており、これを意識して朝倉に遷都し、さらには卑弥呼の宮殿跡に生えていた樹木を伐り払って朝倉橘広庭宮を造営したと推察している。


『古事記』『日本書紀』は神功皇后を卑弥呼・台与だと思わせようとしているが、斉明天皇の朝倉橘広庭宮造営も同じ理由によるものであり、これには『日本書紀』成立当時の氏族間の対立が関係していると考える。

それには息長氏が関わっているようだ。神功皇后の本来の名は息長帯比売で息長氏に連なるが、斉明天皇の夫で天智・天武両天皇の父でもある舒明天皇の和風諡号が息長足日廣額で、やはり息長氏に連なる。


舒明天皇・皇極天皇(重祚して斉明天皇)の時代には皇別の蘇我氏の専横があり、それ以前には蘇我氏と神別の物部氏が対立するが、蘇我氏も物部本宗氏もやがて滅ぶ。

息長氏は応神天皇に系譜の連なるとされる皇親だが、皇親の諸氏族は皇別・神別が始祖としている天照大神の存在を否定したいようだ。『古事記』『日本書紀』の成立当時、律令制の整備が進められていた。

息長氏をはじめとする皇親にとっては神話が語る「天壌無窮の神勅」よりも、律令制統治を優先させたいのだろう。そのために皇親と皇別・神別との間に軋轢が生じていたと考える。

天照大神や高天ヶ原は異次元のものであり、言わば空想の世界であって、現実の地上にいるのは神功皇后であり斉明天皇だとしたいのだろう。事実、神話を読んでそれが史実だと思う人は少ないと思う。




朝倉橘広庭宮については朝倉市須川にあったと言われていたが、発掘調査では長安寺という寺院跡らしいということで、現在では九州横断自動車道の発掘調査で発見された、志波地区内の計画的に配置された11棟の建物跡が、朝倉宮の周辺施設ではないかと言われている。

私は朝倉橘広庭宮が確認されていく過程で卑弥呼の宮殿が発見されると思っている。志波の建物群が斉明天皇の時代のものでなければ卑弥呼の宮殿の可能性があると考えるのだが、どのような見解が出てくるか楽しみだ。




朝倉市恵蘇宿の恵蘇八幡宮の周辺は木の丸殿跡と呼ばれていて、中大兄皇子(天智天皇)が崩御した斉明天皇の殯(もがり)を行った場所だとされ、背後の御陵山には斉明天皇殯陵という伝承を持つ古墳がある。

斉明天皇の殯(もがり)は大和の飛鳥川の川原で行われたとあるからこの古墳が斉明天皇の陵ではないことは明らかで、私はこれを卑弥呼の墓だと考えている。

近世には付近の筑後川岸に船着場があり、伝説では関所もあって関守がいたという。古墳は船着場・関所から見上げる位置にあるが、3世紀にも筑後川を昇り降りする船の船着場があって、この古墳のことが大きな墓として船人の口に膾炙され、帯方郡使の張政の耳に達したのだと考えたい。


斉明天皇は卑弥呼が天照大神であることを知っており、これを意識して朝倉に遷都したと想像するが、では神話の一方の主人公のスサノオは誰だろうか。

宗像郡の宗像大社には天照大神とスサノオの誓約で生まれたとされている3女神が祭られている。私は3女神について筑前の宗像氏・筑後の水沼君・豊後の大神氏などが、スサノオを始祖とする伝承を持っていたことから生まれたと考えている。

邪馬台国の位置論が紛糾するのは実在している面土国を存在しないとするからで、その面土国は宗像郡だ。スサノオは筑前の宗像氏の祖の面土国王であり、それは倭人伝に「津に臨んで捜露す」と見える刺史の如き者だと考えている。


筑前 @斯馬=志麻 
豊前 A巳百支=企救 B伊邪=京都 C都支=仲津 D彌奴=筑城 E好古都=上毛 F不呼=下毛 G沮奴=宇佐 
肥前 H対蘇=基肄 I蘇奴=養父 J呼邑=三根 K華奴蘇奴=神崎 L鬼=佐嘉 M為吾=小城 N鬼奴=杵島 
豊後 O邪馬=日田 P躬臣=玖珠 Q巴利=速見 R支惟=大分 S烏奴=大野 21奴=直入

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