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私のブログ『邪馬台国と面土国』

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応神天皇は奴国王の末裔か

筑前粥田庄


『神功皇后摂政前紀』は応神天皇の誕生の地を宇美(糟屋郡宇美町)とするが、応神天皇紀には「筑紫の蚊田に生れませり」とある。筑紫の蚊田については谷川士清の「日本書記通証」などは筑後国御井郡賀駄郷(小郡市平方)とし、鈴木重胤は筑前国怡土郡長野村蚊田(糸島市長野)としている。

私は奴国を遠賀川流域の鞍手・嘉麻・穂波の3郡だと考えているが、筑紫の蚊田については鞍手郡の粥田庄だと思っている。蚊田が粥田庄であれば応神天皇は奴国王の末裔だと考えることができそうだ。

粥田庄は今の飯塚市東北部・宮若市東部・直方市東南部で、遠賀川とその支流の彦山川・犬鳴川がここで合流している。古代の遠賀川下流域は大きく湾入していたことが考えられているが、粥田庄はその湾奥に位置している。

「蚊田」を「潟」のことだとすると潟港があったことが考えられるが、糟屋郡の宇美はそのような場所ではない。粥田庄について正応三年(1290)の高野山金剛三昧院文書に次のようにあって、粥田庄まで大型船が遡上できたようだ。

下 西海道関渡沙汰人
早く高野山金剛三昧院領筑前国粥田庄上下諸人並びに運送船を勘過せしむべき事。右、関々津々、更にその煩いを致すべからず。勘過せしむべきの状、鎌倉殿の仰せに依って下知件の如し


これは鎌倉幕府から西海道(九州)の関渡沙汰人(海上交通管理者)に出された通達だが、当時、元(蒙古)の再度の来襲が噂され鎌倉幕府はその対応に追われていたようだ。

「粥田庄上下諸人並びに運送船」とあって、遠賀川の水運が停滞すると対応が遅れることから、粥田庄を通過する人や船が停滞しないよう配慮するようにと命じている。

私は伊都国への「東南陸行五百里」のコースについては、粥田庄を通過して糸田に至るものだったと考えているが、粥田庄は3世紀にあっても遠賀川流域だけでなく、九州東北部における海陸交通の接点だったようだ。

図の
は4世紀末ころのことと考えられる仲哀天皇・神功皇后の伝承地だが、岡水門・洞海湾と香椎・宇美の間、つまり私が面土国と考える宗像郡と、奴国だと考える遠賀川中・上流部には伝承がない。


神武天皇紀でも遠賀川河口部にあったと思われる岡田宮には触れているが中・上流部には触れていない。景行天皇紀も豊前の高羽の川上(田川郡の彦山川か)と、筑後の的邑(浮羽郡)には言及しているのに隣接する遠賀川本流々域には言及していない。

仲哀天皇紀・神功皇后紀・応神天皇紀もこの地には言及していない。というよりもこの地は歴史から取り残された所という感さえする。『古事記』『日本書紀』は、粥田庄や図の破線部分、つまり奴国に言及することを避けているのではないだろうか。

これは応神天皇の生まれたのは宇美ではなく、粥田庄だったことによると考えるのだ。天照大神は卑弥呼・台与でありスサノオは面土国王だが、応神天皇が57年に遣使した奴国王の末裔ならどうなるだろうか。

応神天皇が奴国王の末裔なら、皇祖(天皇の祖)は卑弥呼(天照大神)ではなく奴国王だということになってくる。私は『古事記』『日本書紀』はこのことを隠蔽しようとしていると考える。

天照大神・ツキヨミ・スサノオの、いわゆる3貴子はイザナギの子とされており、「天壌無窮の神勅」では皇位を継承できるのは天照大神の孫とされるホノニニギの子孫でなければならないとされている。

皇祖については『日本書紀』神代下の冒頭に「皇祖高皇産靈尊」とあるが、ホノニニギは高皇産靈尊の孫でもある。私は高皇産靈尊を倭人伝に見える大倭であり、それは『後漢書』倭伝に邪馬台国に居るとされている大倭王の末裔だと考えている。

図は私の考えている神々の活動の場だが、粥田庄は根之堅洲国に含まれ、宇美は橘小門之阿波岐原に含まれる。私は奴国王を神話のイザナミだと考えているが、応神天皇が奴国王の末裔であれば「天壌無窮の神勅」に反することになる。

『古事記』『日本書紀』成立当時に進められていた律令制の確立や八色の姓の制定に応神天皇の出自、さらには継体天皇の出自が関係してくるのだろう。そのために隠蔽する必要があったと考える

私にとっては応神天皇・継体天皇の出自そのものは関心外だが、神功皇后が卑弥呼・台与とされるについては応神天皇の出自と関係することが考えられるので触れざるを得ない。それには大和朝廷の統治に天神と皇親の対立が絡み、斉明天皇の筑紫西下が関係すると考える。

物部


筑紫の蚊田が粥田庄であれば応神天皇は奴国王の末裔だと考えることができるが、応神天皇を擁立したのは物部氏だと考えている。

筑紫の香椎を皇宮とした仲哀天皇は熊襲を討伐するが、それよりも新羅を討つようにという神勅が神功皇后に下った。仲哀天皇はこれを信じず熊襲討伐を強行したので早死したとも、あるいは熊襲の矢に当たって死んだとされている。

この熊襲については一般に肥後地方の人々のことだと考えられているが、私は大和朝廷の支配に反発している人々であろうと思っている。それは神話において高天ヶ原で活動した神々の子孫、つまり天神とされている氏族だと考える。

神功皇后は天皇の死を伏せたまま新羅討伐を行うが、仲哀天皇が急死した時点で天皇の死を知っているのは、大臣の竹内宿祢と4人の大夫の中臣烏賊津・大三輪大友主・物部膽咋・大伴武以だった。

この5人のうち中臣(藤原)・物部・大伴の3氏は高天ヶ原神話に登場する神の子孫で、『新撰姓氏録』の類別によるところの神別のうちの天神になり、大和の大三輪氏は地祇になる。

大臣の竹内宿祢は景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5代に仕えたとされる架空の人物だが、これは皇別の事を言っているのであり、その子孫とされるのが蘇我氏だ。私は応神天皇を擁立したのは神別の中臣烏賊津・物部膽咋・大伴武以であり、その中心になったのが物部膽咋だと考える。

応神天皇が神別の中臣烏賊津・物部膽咋・大伴武以によって擁立されたことにより、神別と皇別の対立が始まるようだ。それが具体的な形になって表れたのが崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部・中臣氏の対立だ。

物部守屋は中臣勝海と共に仏教崇拝に反対する。敏達天皇の崩御後、守屋は穴穂部皇子を立てようとしたが、蘇我馬子はこれに反対し、用明天皇を立てた。これに先立ち中臣勝海は馬子の刺客によって殺害されている。

その物部氏だが、鳥越憲三郎氏は物部氏の発祥地を遠賀川流域だとしている。また吉田東伍編『大日本地名辭書・西国』には、鞍手郡とその周辺の物部氏の故地と思われる地名が紹介されている。

下は『大日本地名辭書』による物部氏の故地だが1〜6までのうちの3と5を除いたものが粥田庄で、3と5は粥田庄の後背地になる。

1、鞍手郡若宮町鶴田   筑紫弦田物部
2、      芹田   芹田物部  
3、      都地   十市部首
4、   小竹町小竹   狭竹物部
5、   鞍手町新北   贄田物部
6、飯塚市新多      二田物部
7、嘉穂郡嘉穂町馬見   馬見物部
8、遠賀郡遠賀町島門   嶋戸物部
9、宗像市赤間      赤間物部  
10、北九州市(企救郡)  聞物部

図の土穴から烏尾峠までの赤い太線で示した部分が、私の考えている「東南陸行五百里、到伊都国」の行程だが、◎印が物部伝承地だ。6の飯塚市新多だが飯塚市には新多という地名は見られず、小竹町新多(こたけまちにいだ)の間違いだと思う。

粥田庄とその周辺に物部氏の故地が多いが、応神天皇も物部氏も共に奴国王の末裔ではないだろうか。そして物部氏は応神天皇を擁立したことにより朝廷の実権を掌握し、蘇我氏と対立するようになると考える。

物部氏が神別であるのに対して蘇我氏は皇別だが、応神天皇が即位したことにより神別と皇別の対立が激化したと考えることができる。武烈天皇が継嗣を残さぬままに崩御すると、大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らは仲哀天皇5世孫である倭彦王を迎えようとする。

しかし迎えの兵士をみて恐れをなした倭彦王は行方不明になる。そこで越前にいた応神天皇5世孫の継体天皇が擁立されるが、倭彦王が仲哀天皇5世孫であるのに対して継体天皇は応神天皇5世孫とされていることに注意が必要だろう。

以後には皇親、ことに応神天皇に系譜が連なるとされる息長氏が力を持ってくるのだろう。皇親には具体的な活動がみられないが、そうしたなかで息長氏が注目される。

神功皇后の本来の名は息長帯比売だが、これは父が開化天皇の玄孫の息長宿祢王であることにより、神功皇后は息長氏に連なる。また天智天皇・天武天皇の父であり斉明天皇の夫でもある舒明天皇の和風諡号は息長足日廣額だが、これは祖母の広姫が息長真手王の娘であったことにより、やはり息長氏に連なる。

継体天皇は近江国の高嶋郷(現高島市)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷の越前国高向(現福井県坂井市)で育てられたという。息長氏は同じ近江湖北の坂田郡(現滋賀県米原市)を出自の地とする氏族だ。

近江国高嶋郷で誕生した継体天皇が即位するにつては、同じ近江の坂田郡を出自の地とする息長氏が関与したことが考えられるが、ここで息長氏を介して継体天皇と神功皇后・斉明天皇が結びついてくる。

継体天皇21年に天皇が大和に遷都しようとすると筑紫君磐井が反乱を起こすが、継体天皇は物部麁鹿火に対して次のように言ったという。

「長門より東をば朕制らむ。筑紫より西をば汝が制れ。專ら賞罰を行へ。頻りに奏すことに勿煩いひそ」とのたまふ

継体天皇は物部麁鹿火に九州の統治を委任して「專ら賞罰を行へ」と言っている。これは物部麁鹿火が応神天皇と同じ奴国王の末裔なので、物部麁鹿火の統治になら応じようとする人々がいたことによるのではなかろうか。

斉明天皇は巫女としての性格が強かったようだが、朝鮮出兵に際して筑前朝倉に遷都したのは九州に反大和朝廷の動きのあることを知っており、朝倉が邪馬台国であり、卑弥呼の宮殿や墓があること知っていてのことだと考えている。

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邪馬台国と面土国

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放射行程と直線行程
『通典』から
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寺沢氏の説

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