私のブログ『邪馬台国と面土国』
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倭人伝に面土国の名は見えず、面土国王らしい人物も見当たらないと思われているが、倭人伝の記事を解析してみると面土国や面土国王の存在が浮かび上がってくる。
倭人伝に「於国中有如刺史」とあり、通説では伊都国で常冶した一大率の権能があたかも刺史の如くだと解釈され、国は伊都国のことだとされている。だが倭人伝の記事を詳細に検討してみると、刺史の如しとされているのは107年に遣使した面土国王帥升の140年後の末裔であることが分かるようになる。
収租賦邸閣、国国有市交易有無、使大倭監之。自女王国以北、特置一大率検察諸国、諸国畏憚之、常治伊都国。於国中有如刺史、王遣使詣京都・帯方郡・諸韓国、及郡使倭国、皆臨津捜露、伝送文書賜遺乃物、詣女王不得差錯。
租賦は邸閣に収める。国々に市有り、有無を交易す。(使)大倭は之を監す。女王国の以北には特に一大率を置き諸国を検察す、諸国はこれを畏憚する。常に伊都国に治す。国中に於いて(於ては?)刺史の如き有り。王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣るに、郡使の倭国に及ぶに、皆、津に臨みて捜露す。伝送の文書賜遺の物、女王に詣るに差錯するを得ず
文中に「津に臨みて捜露す」とあるが、通説ではこの津は伊都国にあると考えられている。この文はどこまでを一節と読むかで意味が変わり、津とは港・湊・水門のことであり、この津が面土国の国名の起源になった港であることが考えられるようになる。
第1の読み方・・・「使大倭監之」以前を1節とし、以後を別の節とする読み方
前節=
収租賦邸閣、国国有市交易有無
後節=
使大倭監之、自女王国以北、特置一大率検察諸国、諸国畏憚之、常治伊都国、於国中有如刺史、王遣使詣京都・帯方郡・諸韓国、及郡使倭国、皆臨津捜露、伝送文書賜遺乃物、詣女王不得差錯。
第1の読み方は東洋史の植村清二氏の説で、この説は邪馬台国=畿内説の立場に立っている。この説は『旧唐書』倭国伝に見える次の文が意識されているようだが、文は605年から648年まで施行された冠位十二階に触れている。
其王姓阿毎氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等
其の王の姓は阿毎氏、一大率を置き諸国を検察す。皆之を畏附す、官を設けるに十二等有り
王の姓の阿毎は神話の「天」のことで大和朝廷を意味しているが、植村氏は『旧唐書』の一大率と倭人伝の一大率とは同じものであり、大和にあった邪馬台国が発展して大和朝廷になったとみているようだ。
大倭・一大率・如刺史を後節に入れて、大倭は大和に在った邪馬台国の高官で、九州の伊都国に派遣した一大率を統括しているのであり、大倭と租賦を収めるための邸閣や交易は無関係だと解釈している。
「使大倭監之」の使の文字が前節に対するものなのか、あるいは後節に対するものなのかが問題になるが、植村氏は後節に対するものとしている。
第2の読み方・・・「使大倭監之」までを1節とし、以後を別の節とする読み方
前節=
収租賦邸閣、国国有市交易有無、使大倭監之
後節=
自女王国以北、特置一大率検察諸国、諸国畏憚之、常治伊都国、於国中有如刺史、王遣使詣京都・帯方郡・諸韓国、及郡使倭国、皆臨津捜露、伝送文書賜遺乃物、詣女王不得差錯
第2の読み方は今日の通説になっているもので、大倭が前節に入り一大率と如刺史が後節に入る。第1の読み方とは意味が変わって「使大倭監之」の5文字が前節に入り、大倭は邸閣や交易を統括しているだけで一大率とは関係がないとされている。
この読み方では大倭が後節から外れるので畿内説・九州説の双方に適用できるが、「如刺史」が一大率の権能を説明しているとするのは第1の読み方と同じだ。
第3の読み方・・・第2の読み方に加えて「於国中有如刺史」以後を別の節とする読み方
前節=
収租賦邸閣、国国有市交易有無、使大倭監之
中節=
自女王国以北特置一大率、検察諸国、諸国畏憚之、常治伊都国
後節=
於国中有如刺史、王遣使詣京都・帯方郡・諸韓国、及郡使倭国、皆臨津捜露、伝送文書賜遺乃物、詣女王不得差錯
第3の読み方は他には見られない私独自の読み方で、第2の読み方では一大率と如刺史が後節に入るが、第3の読み方では大倭は前節に入り一大率は中節に入り、如刺史は後節に入る。これだと大倭・一大率・如刺史はそれぞれ別個の官職になる。
植村氏は邪馬台国=畿内説の立場に立つので第1の読み方になったが、第1の読み方と第2の読み方では意味が変わってくるように、第2の読み方と第3の読み方でも意味が変わる。この読み方は伊都国以外の国が存在していると考えないと成立しない。
この読み方の問題点は第1の読み方の「使大倭」の「使」や、第2の読み方の「自女王国以北特置一大率」の「特置」と同様に「如刺史」の前に入っている「於国中有」の4文字、ことに「有」をどのように解釈するかという点にある。
「於国中有如刺史」の「於」の文字の意味について『大辞泉』は 1時間を表すとき 2場所を表すとき 3場合や事柄を表すとき に用いられるとしているが、通説の解釈は3の、場合や事柄を表すときの「に関して」「について」「にあって」という意味だとされている。
ここでは「にあって」という意味で「伊都国の中にあって刺史の如し」と解釈され、一大率が諸国を検察し、また伊都国の津(港)で文書や献納物を捜露している有様が、あたかも中国の刺史の如くだと解釈されている。
この場合、一大率は常に伊都国にいるのだから国は伊都国に限定され他の国は考えようがない。従って「於国中有」の4文字、ことに「有」は必要がなく「常治伊都国、如刺史」で充分に意味が通じる。
有の1字だけを削除した場合には於国中有の国は伊都国だと強調しているように受け取れるが、於国中有の4文字を削除した場合には特に強調はされてはいないように感じられる。だが4文字にはそうした意図はないようだ。
いずれにしても第1、第2の読み方では於国中有の4文字がなくても一大率が伊都国に居ることに変わりがない。また「有」は「無」の対義語で何かが有る状態をいうが、「伊都国の中にあって刺史の如し」の「あって」には漢字の有の意味はない。
そこに無用の「於国中有」、ことに「有」が加わると意味が変わってくる。小学館編『日本国語大辞典』の【於】の項に(「は」を伴って)仮定条件を示すとあり、「・・の場合には」という意味があると説明されている。
『日本国語大辞典』には「宿に居るなれば、暇におゐてはお出でをまつ」という例あげられている。この例では「暇であれば」という仮定が行われているが、そうであれば「於国中有」は「国中に於ては刺史の如き有り」となり、存在が仮定された国が「有る」ことになる。
通説の解釈では一大率は常に伊都国にいるのだから国は伊都国に限定され他の国は考えようがなく、その国を伊都国としたのでは仮定にならない。無用の4文字が入っているのは伊都国とは別に「如刺史」の居る国があると仮定されているということだ。
その国は末盧国と伊都国の中間に位置しており、そのために倭人伝の地理記事では末盧国と伊都国の間に断絶が生じるのであり、伊都国以後が放射行程になるのだ。
その国を末盧国とすることも可能だ。末盧国の記事には官名が見えないが、末盧国の官があたかも刺史の如き立場にあって捜露を行っているのだと考えることができる。そうであれば通説で言われているように末盧国から陸行が始まることになる。
浜山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、水無深浅、皆沈没取之
末盧国の光景が述べられているが、おそらく東松浦半島の呼子付近の光景だろう。刺史の如き者が居て捜露が行われる津の光景だとは思えない。「草木茂盛、行不見前人」というのだから道らしい道もないのだろうが、そうした中を陸行するのはおかしい。
捜露が行われ、陸行が始まる所なら道路も整備されているはずだが、やはり末盧国と伊都国の間に倭人伝には国名の見えない国があると考えるのがよい。倭人伝に国名の見えない国があることが倭人伝の地理記事の解釈を混乱させている。
「如刺史」によって捜露が行われている津を倭人は「ミナト」と言い、その国を「ミナトの国」と言っていたが、それに面土という文字が当てられたのだ。その国こそ面土国であり「如刺史」は面土国王なのだ。一大率は伊都国におり、「如刺史」は面土国に居る。そして大倭は元来の邪馬台国王だ。
面土国は筑前宗像郡だが、神話ではこの国はスサノオの統治する海原とされている。天照大神が卑弥呼であることはよく知られているところだがスサノオは面土国王であり、倭人伝にみえる「如刺史」は天照大神が天の岩戸から出てきたころのスサノオになる。
植村清二氏は大倭を大和朝廷のことだとしているが、大倭は元来の邪馬台国王でタカミムスヒ(高皇産靈・高木神)のことだ。また一大率は天孫降臨を先導したとされているサルタヒコ(猿田彦)だ。
神話では天照大神が岩戸に籠った原因はスサノオの狼藉にあるとされて追放され出雲に降ることになっている。正始8年から間もないころに「如刺史」が追放されるような政変のあったことが考えられるが、『日本書紀』には次のように記されている。
然して後に、諸神罪過を素戔嗚尊に帰せて、科するに千座置戸を以ってして、遂に促め微る。髪を抜きて、其の罪を贖なはしむるに至る。亦曰く、その手足の爪を抜きて贖ふという。巳にして竟に遂降ひき
千座置戸は多くの賠償を意味し、髪や手足の爪を抜くのは体刑を意味している。卑弥呼死後の争乱で面土国王に加担したものが処罰されたのだろう。この処置で面土国王は「如刺史」の立場、及び台与共立の当事者としての立場を失うようだ。
台与共立の一方の当事者が存在しなくなったことで女王制は有名無実になる。このころ魏では司馬懿がクーデターを決行しており、以後の魏は実体のない国になっていくが、このことも女王制を不必要なものとすることに追い討ちを掛けているようだ。
正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王。竝受中國爵命
この『梁書』『北史』の文によると台与の後には男王が立つことになるが、「竝受中國爵命」とあるから台与と男王が竝(並)び立った時期があると見ることができる。その時期は司馬昭が魏の相国だった258年〜265年の間だと思っているが、この男王が神話のホノニニギのようだ。
今日の通説になっている第2の読み方は、前漢時代の刺史と魏・晋時代の刺史の性格を混同していて、『三国志』の編纂者の陳寿自身が『魏志』巻十五の評語で述べていることに反している。
自漢季以来、刺史総統諸郡、賦政于外非若、嚢時司察之而巳
漢の時より以来、刺史は諸郡を総統し、都の外にあって行政を行った。これは先の時代にただ司察だけを行っていたのと同じではない
前漢時代の刺史の秩禄は六百石で行政権も軍事権もなく、各州に1名が配置されて担当の州内を巡視し、主として官僚と土着豪族の癒着を中央政府に報告する司察官だった。官僚や土着豪族は刺史を畏憚しただろうが、そのような意味では前漢時代の刺史と一大率は似ていなくもない。
しかし魏・晋時代の刺史は二千石が任命される州の長官で強大な行政権と軍事権を持っていた。魏・晋時代の刺史に津(港)に出向いて船の積み荷を捜露する任務はないし、支配下の郡県を畏憚させる刺史がいたらそれは余ほどの酷吏だが、そのような刺史のいた例もない。
第2の読み方の刺史の解釈は実態とかけ離れている。前漢時代の刺史と魏・晋代の刺史の性格の違いを知っている陳寿が、300年も400年も前の前漢時代の刺史を引き合いに出して一大率を説明することなどあり得ないことだ。
私は第2の読み方を案出したのは那珂通世・白鳥庫吉の師弟ではないかと推察している。那珂通世は1851年に南部藩士の子として生まれたが、戊辰戦争後、江戸の越前藩邸に預けられた。
白鳥庫吉は1865年に千葉県佐倉市で生まれたが、幕末の佐倉藩主、堀田正睦は農民を徴兵して九十九里浜の海防に意を注ぎ、ペリーの来航以降には外国事務取り扱いの老中になり、ハリスとの日米修好通商条約締結などで奔走した。
那珂通世・白鳥庫吉は「如刺史」を関八州取締出役のようなものだと思っただろう。初期の関八州取締出役は8名で、江戸府内と水戸藩領以外の関東八州の、担当する州内を巡視していたが、これは前漢時代の刺史が、首都圏以外の13州に一名ずつ配置されて担当の州内を巡視したのと似ている。
徳川幕府の崩壊が近くなって世の中が騒然としていた元冶元年(1864)に関八州取締出役が20名に増員されたが、開港されて治外法権になった横浜を警備するために保土ヶ谷に一名が配置された。白鳥庫吉が生まれる前年のことで、二人は幕末の横浜を知っていただろう。
鎖国継続か横浜開港かで紛糾した直後だけに、保土ヶ谷に配置された関八州取締出役が外国人の情報を探索していることが注目されていただろう。これは倭人伝の「津に臨み捜露す」の文を思い起こさせる。
関八州取締出役は俗に「泣く子も黙る」と言われるほど恐れられた存在だったが、二人はこのことを知っており、一大率を関八州取締出役のようなものだと考えたと想像する。また津に臨んで捜露する一大率は、横浜を警備するために配置された関八州取締出役のようなものだと思ったのだろう。
倭人伝に「王遣使詣京都・帯方郡・諸韓国・・・詣女王不得差錯」とあるが、この王は卑弥呼か台与であり、その意味は「自女王国以北」に伊都国以外の国があるということで、「詣女王不得差錯」はその国に刺史の如き者がいて女王の行う外交を代行しているということだ。
これは一大率が諸国を検察しているのとは別次元のことだ。卑弥呼は共立されて王になったという経過からも分かるように、女王制は卑弥呼の祭祀権、弟の政治権、一大率の軍事・警察権、大倭の経済権、及び面土国王(如刺史)の外交権の5権が分立した分権統治だった。
107年に面土国王の帥升が遣使しているが、それ以後の70~80年間にも面土国は楽浪郡と接触していたことが考えられる。そうした経緯があったので卑弥呼が女王に共立されて以後は外交権を分掌するようになると考えられる。
「津に臨んで捜露す」とあるが、捜露という語感から一大率の軍事・警察権と面土国王(如刺史)の外交権が混同されている。外交上での捜露にはあまり良い意味はないが、ここでは文書や賜物を相互に披露し合う外交上の儀式だと考えるのがよいだろう。
作家の松本清張氏は一大率を魏の派遣官だとし、伊都国、邪馬台国以外の28ヶ国にそれぞれ刺史のような役人がいて国内を検察しており、それを伊都国にいる一大率に報告しているのだとしている。松本氏は刺史を誤解してしている。
魏・晋時代の刺史は中国にあった14の州の内の、首都圏以外の13の州の長官であり、28ヶ国は中国の郡に相当すると考えなければならない。28ヶ国に州の長官である刺史の如き者がいるはおかしい。
女王は30ほどの国を支配しておりそれぞれの国には官と副官がいたが、刺史は州の長官で皇帝よりも下位であり郡太守よりも上位だから、刺史の如き者は女王よりも下位であり、各国の官より上位であることが考えられる。
面土国王は卑弥呼に譲位したが、かつての倭国王としての権威をなおも保持しており、卑弥呼と面土国王は対立する関係にあった。それが神話では天照大神とスサノオの関係として語られている。
面土国王は奴国・不弥国・面土国などの「自女王国以北」の国々を、女王に対して半ば独立した状態で支配していた。その統治の形態があたかも中国の州刺史のようだというのだ。
倭人伝は邪馬台国・投馬国の方位を南としているだけ距離を記していない。帯方郡使の張政は邪馬台国・投馬国の位置には関心がなく、関心を持っていたのは面土国王があたかも州刺史の如く支配している「自女王国以北」の国々だった。
「自女王国以北」は女王国内でも特殊な地域だったようだが、第3の読み方は可能だろうか。面土国の存在を肯定すると如刺史を面土国王とすることが可能になるが、否定すれば一大率と如刺史の関係が不明瞭になり混乱して通説のような矛盾が生じる。
西嶋氏は面土国の存在が「文献学的」に実証されない限り、面土国は存在しないと考えるのがよいとされているが、望むべくもないことだがこの第3の読み方が、「文献学的」に可能かどうか聞いてみたいものだ。