私のブログ『邪馬台国と面土国』

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邪馬台国は伊都国と斯馬国の間にある

『翰苑』から


末盧国と伊都国の間に倭人伝に国名が記されていない国があることが考えられるが、その兆候は随所に見られる。倭人伝の地理記事が末盧国までは直線行程であるのに対して、伊都国以後は放射行程になることなどもその一例と言えよう。

また倭人伝の記事を詳細に検討してみると、伊都国以後は「従郡至倭」の行程には含まれない「自女王国以北」の国になり、そこに「刺史の如き者」が居る国があることが考えられるようになる。


その国は面土国でありそれが宗像郡であれば、投馬国と邪馬台国の位置についても従来の考え方では対処できなくなるが、大正6年に黒板勝美氏によって発見された大宰府天満宮蔵本『翰苑』がこの問題を解くキーポイントだと考えている。

『翰苑』は多くの中国史書を断片的に引用していて史書ではなく文例集だとされているが、多くの史書が現存していない今となっては史書に準ずるものと言えよう。だが誤字・脱字が多いことなどから史書としての価値は低いとされている。

その中に倭人に関する部分があり、冒頭の標題に「憑山負海鎭馬臺以建都」とある。「山に憑り海を負いて馬臺に鎭す。以って都を建つ」と読み下されているが、馬臺は邪が欠落したもので邪馬台国のことだと考えられている。

『翰苑』の編纂者の張楚金は邪と馬臺を別個のものと見て邪馬臺国(邪馬台国)を「邪の馬臺」と解釈していることが考えられる。また『廣志』からの引用として次の文があるが、そのなかの「邪届伊都、傍連斯馬」についても同様のことが言える。

邪届伊都、傍連斯馬。廣志曰く、倭國東南陸行五百里、伊都國に到る、又南邪馬嘉国に至る。百女国以北、其の戸數道里、略載を得ること可。次斯馬國、次巴百支國、次伊邪國、案ずるに倭の西南海行一日に伊邪分國有り、布帛は無く、革を以って衣と爲す、蓋し伊耶國也。

文中の邪馬嘉国の嘉は臺と酷似しており嘉は臺の誤字で邪馬台国のことだと考えられている。張楚金が「憑山負海鎭馬臺以建都」の馬臺を「邪の馬臺」と解釈しているのなら「邪届伊都」の邪は馬嘉が欠落したもので邪馬嘉(邪馬臺)のことだと考えることができる。

『翰苑』の文には『魏志』倭人伝と異なり、奴国・不弥国・投馬国が見えないが、斯馬国・巴百支国・伊邪国は倭人伝の斯馬国・已百支国・伊邪国のことだと考えてよい。また「百女国以北、其の戸數道里、略載を得ること可」とあるが、倭人伝では「自女王国以北、其の戸数道里、略載を得ること可」となっている。

このことからみて『魏志』倭人伝と『廣志』とに共通する資料があることが考えられる。それは247年に黄幢・詔書を届けに来た張政の報告書であることは間違いない。

それが張華の『博物志』に引用されていたと考える。
陳寿が『三国志』を編纂したのは280年ころと言われているが、陳寿の才能を見出して『三国志』編纂のチャンスを与えたのが張華だった。

張華は267年以後、一種の百科事典『博物志』を書いたが、その内容は山川地理の知識、歴史的人物の伝説、奇異な草木・虫魚・鳥獣の描写、神仙方技の故事などで、陳寿の『魏書』東夷伝にも似た記事が見られ、東夷伝の記事には『博物志』に元づいて書かれた部分があることが考えられる。

張華は282年から287年までの5年間、故郷の幽州刺史(幽州の長官)を務め、特に朝鮮半島の経略に力を入れた。『三国志』が編纂された時期と、張華が幽州刺史を勤めた時期が一致するが、『魏志』の東夷伝が編纂されるについては張華が幽州刺史を勤めた時に入手した資料があることも考えられる。

文中の「邪届伊都、傍連斯馬」は、伊都に届く一方で斯馬の傍に連なっている国があるということだが、通説では伊都国は筑前(福岡県)の怡土郡と志摩郡とされている。志摩郡については斯馬国だとする考えもある。

古田武彦氏は「邪届伊都」を「ななめに伊都に届き」と解釈しているが、邪の意味はよこしまであって斜めではないからこの解釈は無理なように思える。そうであれば邪と馬臺を別個のものと見る張楚金は、邪馬嘉国が伊都に届いているとしていることになる。

ところが古田氏の『邪馬一国への道標』(第4章四~七世紀の盲点)によると、「邪」には“ななめに”と読む副詞の用法があって、届と連は動詞であり、邪と傍は副詞だという。

諸橋哲二編『大漢和辞典』には
「ななめ」、東北につづく。斜に通ず。とあるという。用例として漢書』司馬相如伝の「邪(ななめ)に粛慎と鄰を為す」が引用されているが、それには顔師古の注釈があり、「邪、読みて斜と為す。東北に接するを謂う」とあるという。そこで古田氏は次のように述べている。

「じゃあ、“東北につづく”場合だけじゃないか」。そうおっしゃる方もあるかもしれません。わたしも、はじめそう思いました。

古田氏の解釈が正しいのであれば、ある国の東北に伊都国があることになり、その国はななめに伊都に届いていることになってくる。『新漢和辞典』でも「ななめ。ゆがむ。かたよる」という意味があるとされているという。

つまりその国は伊都国の西南に位置していると考えることができるのだが、西南にある国とはどのような国なのだろうか。その国こそ邪馬嘉国、つまり邪馬台国なのだ。

一方の斯馬国はどうだろうか。倭人伝では東百里に不弥国があり、東南百里に奴国があるとされ、邪馬台国は南にあるとされているから、斯馬国の方位は西か南西のはずだ。だが宗像郡の西は玄界灘だから国はない。斯馬国の方位は西南でなければならず、それは福岡平野方面になる。

倭人伝には地勢を国名にしていると思われるものがあるが、斯馬国とは「島の国」という意味だろう。宗像の西南で国を形成することができる島といえば志摩郡以外にはない。志摩郡は今は半島になっているが弥生時代には島だったと言われていて、怡土郡と併合されて糸島郡になった。

又南邪馬嘉国に至る」とあるが『翰苑』の文には奴国・不弥国・投馬国が見えない。これには距離こそ記されていないが、方位・距離の起点になっている国と邪馬台国は国境を接しているということだと見ることができる。

つまり伊都国以後は放射行程で奴国・不弥国・投馬国の位置と邪馬台国の位置とは無関係なのだが、直線行程(連続行程)説に見られるように、私たちは倭人伝の地理記事と言えば邪馬台国の位置を説明したものだという先入観を持っている。

そのために伊都国・奴国・不弥国・投馬国の位置を意識してしまうがそれは無用のことだ。このことを証明しているのが「邪届伊都、傍連斯馬」で、邪馬嘉国(邪馬台国)は伊都国と斯馬国の間に位置している。下図はその「邪届伊都、傍連斯馬」を赤線でイメージしている。

通説では伊都国は怡土郡・志摩郡(糸島市)とされているが、伊都国は田河郡であり斯馬国は筑前志摩郡だろう。赤線の位置は宗像郡の西南から東南になるから、方位が南の邪馬嘉国(邪馬台国)は赤線付近だと考えることができる。

図のは著名な弥生遺跡や歴史上の政治・文化の中心地だが平原遺跡 吉武高木遺跡 福岡 須玖岡本遺跡 大宰府を示している。朝倉は斉明天皇の朝倉遷都を表し、日田は徳川時代に幕府の天領(直轄領)になり陣屋が置かれたことを表す。

九州の歴史は弥生時代から現代に至るまで赤線の周辺を中心にして動いていると言えるが、これは考古学的にも明白な事実であり邪馬台国や卑弥呼の宮殿・墓も赤線付近のどこかにあると考えてよさそうだ。


福岡県に土地勘がないと理解し難いと思うが、伊都(田河郡)に届いているのは筑前上座郡(現朝倉市・東峰村)になる。古田氏の邪を「ななめ」、東北につづくという意味だとする見解に従うなら、田河郡は上座郡の東北になり、斜めに届いていると言える。

田川郡に届いているのは朝倉郡東峰村だが、筑前・豊前・豊後の国境に位置しており筑後にも近い。またこの地は遠賀川水系と筑後川水系の分水嶺になっていて、現在でも日田彦山線が通っていることに見られるように両地域の交通の要所になっている。

遠賀川水系域に奴国と伊都国があり、筑後川水系域に邪馬台国と投馬国があったと考えているが、倭人伝の地理記事を考察する上で、東峰村の位置を無視することはできないと思っている。

斯馬の傍に連なっているのは筑前怡土郡(現糸島市・福岡市西区の一部)になる。斯馬国は面土国の西南に位置していることが考えられるが、伊都国が東南五百里であるのに対し、斯馬国は西南六百里程度になるようだ。

面土国の東百里の遠賀郡が不弥国になり、東南百里の鞍手郡が奴国だが、邪馬台国は南百里の糟屋郡になるようだ。宗像郡と糟屋郡の郡境が面土国と邪馬台国の国境であり、それは田熊石畑遺跡の南百里になると考えるのだ。

このように考えるのは宗像郡の南の糟屋郡新宮町新宮浜が安曇氏の発祥の地とされていることによる。安曇氏の祖とされる海神、豊玉彦はウガヤフキアエズ・ヒコホホデミ・神武天皇などの皇孫と関係するのに対して、宗像氏の奉祭する宗像三女神は大国主などの地祇に関係しており性格が異なる。

安曇氏の奉祭するのが志賀海神社の 綿津見三神だが、志賀海神社の信仰圏の糟屋郡は、住吉三神を祭る住吉神社の信仰圏の席田郡・那珂郡と共に邪馬台国になると考える。

とすれば方位が南で「水行二十日」の投馬国は筑後以外には考えられなくなってくる。二十日に問題があるものの水行とあるから投馬国は海に面した国のはずで、その海は有明海でなければならない。筑後は宗像の南千里になるが、邪馬台国は南北が九百里(59キロ)ほどの広さの国のようだ。

女王国の南には狗奴国があり、さらに南四千里には侏儒国があるが、四千里といえば壱岐と対馬の間の4倍に過ぎない。侏儒国は薩摩・大隅・日向であり、狗奴国は肥後であることが考えられる。

帯方郡使の張政が関心を持っているのは「郡使の往来して常に駐まる所」の伊都国や「自女王国以北」の国々であって、邪馬台国や投馬国の位置など問題にしていない。張政が邪馬台国の位置に関心を持っているのなら「水行十日・陸行一月」などとすることはない。

「自女王国以北」は面土国王の支配する女王国内でも特殊な地域のようだ。その倭人伝の地理記事だけで邪馬台国の位置を求めるのは、言うなら「無いものねだり」だ。もっとも、だからこそ邪馬台国論争が起きて我々が楽しめるとも言える。

筑前を三郡山地で東西に2分した時の東側が奴国・不弥国・面土国の3ヶ国で、西側に邪馬台国と斯馬国の2ヶ国があったと考えることができる。伊都国は筑前ではなく豊前になるが、そうであれば方位が南とされている投馬国は筑後以外には考えられなくなってくる。

また国名のみの21ヶ国はその周囲の豊前・豊後や肥前にあったと考えることができる。肥前で女王国に属していたのは佐賀県部分だけで、長崎県部分は狗奴国だったようだ。

「西南海行一日に伊邪分國有り・・・蓋し伊耶國也」の伊邪分國については、伊邪久国の誤りで鹿児島県の屋久島のことだとされているが、私は已百支國を豊前国企求郡(北九州市)と考え、伊邪國は京都郡(行橋市)だと考えている。伊邪分國・伊耶國については、西南は東南の誤りで四国の伊予だと考える。

倭人伝にも似た記事があり「又有裸国・黒歯国、復在其東南、船行一年可至」とある。船行一年と言えば太平洋上か南アメリカになりそうだが、裸国・黒歯国は『翰苑』の伊邪分國(伊耶國)のことであり、倭人伝の船行一年は一日の誤りだと考えることができる。

伊邪分國は裸国のことだろう。「布帛は無く革を以って衣と爲す」とあるが、普段は温暖なので裸で暮らしているが寒くなると革を纏ったというのだろう。そうであれば黒歯国は銅矛が濃密に分布する土佐であることが考えられるが、土佐に歯を黒く染める風習があったのだろうか。

私は倭人伝の船行一年については別の考えを持っている。「又有裸国・黒歯国、復在其東南」とあるが、四国の伊予のことを述べているのであれば「復在」の文字は不必要で「又有裸国・黒歯国、其東南」でよい。

原資料が存在しないので推察になるが、「復在」とは中国地方西部の「倭種の国」や四国西部の「裸国・黒歯国」の他に、船行一年の地にも国があるという意味だと解釈するのだ。その国とは出雲であり、大和であり、越(北陸)だと考える。


船行一年は本州の東端のことであり宗像海人は東北地方のことも知っていたことが考えられる。ちなみに長野県中野市の柳沢遺跡で九州タイプの銅戈が出土しているが、この銅戈を祭っていた宗族が北陸の神話に登場してくるタケミナカタ(建御名方)で、面土国王とは同族関係にあったと考えている。

弥生式土器や青銅祭器の分布、あるいは方言圏などを見ると山陰の出雲、瀬戸内の吉備、九州の筑紫との中間に「西瀬戸内文化圏」(安国寺式土器分布圏)とでも称するものを想定することができる。


「伊邪分國有り・・・蓋し伊耶國也」とあるのは豊前の草野津や宇佐、あるいは周防の佐波などを中心とする周防灘周辺の、「西瀬戸内文化圏」のことを述べていると考えることができそうだ。言うまでもないがその先には吉備や大和がある。

邪馬台国=畿内説は魏使が畿内に行ったことを前提にしているが、畿内説では「裸国・黒歯国」や「復在」の意味が説明できないどころか、狗奴国や侏儒国も説明できない。

余談になるが吉備・大和といえば、最近の私の頭をよぎるのは例の纏向遺跡で出土した「二千七百個の胡桃の実」のことで、炭素14による年代測定は行われたのだろうか。邪馬台国=畿内説に元気がなくて吉備説や四国説が頑張っているようだが、原因は胡桃にあるように思えてならない。

邪馬壱国について


福岡平野を邪馬台国とするものに古田武彦氏の説があるが、古田氏の『邪馬台国はなかった』は安本美典氏との論争が注目されて昭和50年ころからずいぶん話題になった。

邪馬台国ではなく邪馬壱国だという主張もユニークだが、古田氏の考えと私の考えには似ている点があるので、私の考えを検証するという意味で古田氏の説に触れてみたい。

通説では末盧国は唐津附近とされ伊都国は糸島市の前原付近とされているが、古田氏はその間が五百里だから、奴国の百里、及び不弥国の百里は唐津〜前原間の距離の5分1のでなければならないとする。

これはあくまでも推察だが、古田氏も『邪馬台国はなかった』を著述するについては「邪届伊都傍連斯馬」を意識しているのではなかろうか。古田氏は「邪届伊都」を「ななめに伊都に届く」と解釈している。

「邪届伊都傍連斯馬」は伊都国に届き斯馬国の傍に連なっている国があるということだが、その国は邪馬嘉国だと考えられる。この場合の嘉は臺(台)の誤字だとされている。

古田氏は邪馬台国を邪馬壱国の誤りだ強調していて、これを支持する説を見受けるが、これは『廣志』の嘉が臺(台)の誤字であることを考察しているうちに、臺(台)も壹(壱)の誤字だという発想に転じていったものだと推察している。

古田氏も邪馬壹(臺)国の位置を伊都に届き斯馬の傍に連なっているとしたいのだと推察するが、怡土郡を伊都国とし志摩郡を斯馬国として、福岡平野を邪馬台(壱)国とすると奴国を比定する場所がなくなってしまう。

そこで伊都国を志摩郡とし奴国を怡土郡としたが、こうするとこんどは斯馬国を比定するする場所がなくなる。そのために斯馬国を志摩郡とすることができず、本来の目的とする邪馬壹(臺)国は「邪届伊都傍連斯馬」だという主張ができなくなったと推察する。

奴国を怡土郡とするについては糸島郡在住だった考古学者、原田大六氏がレトリックの対象になっている。しかし伊都国=糸島郡説は『古事記』『日本書紀』がそう思わせようとしていることに始まっており、原田氏はそれを熱心に支持しているに過ぎない。原田氏をレトリックの対象にしても糸島郡が伊都国ではないということにはならない。

古田氏は「道行読法」なるレトリックによって不弥国を博多湾岸の港湾都市とし、「最終行程0」なるレトリックによって不弥国と邪馬台国は隣接しているとする。従って奴国は伊都国と邪馬台国の間に位置しているのだという。

糸島郡から福岡平野にかけての博多湾沿岸に伊都・奴、不弥・邪馬台の四ヶ国が纏められているが、さすがの古田氏も投馬国を比定する場所が見つからず「水行二十日」を援用して薩摩・大隈としているようだ。

古田氏が邪馬壹(臺)国は「邪届伊都傍連斯馬」だという、元来の目的とする主張をしていないのは唐津の東南五百里に伊都国があるという通説に囚われているために、斯馬国を比定する場所がないからだろう。

倭人伝にその名が見えないから面土国の存在が考えられていないのは無理もないことだが、末盧国と伊都国の間に面土国がある。面土国は宗像郡であり伊都国は志摩郡ではなく田川郡だ。

そして戸数2万の奴国は怡土郡ではなく遠賀川中・上流域の鞍手・嘉麻・穂波の3郡だ。2万戸の範囲を怡土郡内とするには無理がある。このように考えると斯馬国は志摩郡でよいことになる。

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邪馬台国と面土国

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始めに

倭面土国
末盧国神湊説
伊都国は田川郡
放射行程と直線行程
『通典』から
諸説
倭国王

夫余伝の地理記事
二つの夫余
西嶋定生氏の見解
面土国は伊都国か
寺沢氏の説

第3の読み方
如刺史
州刺史

スサノオ
スサノオの音
出雲のスサノオ

邪馬台国
『翰苑』から
邪馬壱国について
水行十日・陸行一月
『大唐六典』
宗像郡
宗像大社
宗像の特殊神事
田熊石畑遺跡
安本氏の説
高木神社
卑弥呼の宮殿・墓
息長氏
卑弥呼の墓
卑弥呼の宮殿

投馬国
卑弥呼死後の男王
国名のみ21ヶ国

稍とは
狗邪韓国は釜山か
海峡圏
万二千里
『大漢和辞典』から
王畿思想
千里は三百里
多元王朝説
1里は65メートル
宗族
部族は存在したか
部族

部族と稍
多妻制度
部族連盟

青銅祭器
青銅祭器と神道
銅鐸と出雲神族
銅矛と安曇氏
銅剣と物部氏
銅戈と宗像氏
出雲の部族

神話
白鳥庫吉の考え
津田左右吉の考え
神話の年代
紀事本末体
部族と氏族
氏族
神功皇后

筑紫の蚊田
筑前粥田庄
物部氏

卑弥呼以前
那珂海人の王
大倭王

台与と並び立つ男王
竝受中國爵命
天孫降臨

二人のホホデミ
ヒコホホデミ
神武天皇の東遷

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